メンバー紹介:中川裕先生(東京外国語大学総合国際学研究院・教授/ 分担者)インタビュー記事

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分担者 中川裕先生へのインタビュー

インタビュアー:杉山由里子・中山恵美
インタビュー実施日:2023年11月7日

1.研究内容と経緯

(1)研究内容
杉山:ではまず、中川さんの研究の内容について、簡単に説明していただけますでしょうか。

中川:分野は言語学、中でも音声学・音韻論という下位分野での研究が多いです。それは簡単に言うと発音の研究です。研究対象は、グイ語(Gǀui)、ガナ語(Gǁana)(以下、グイ語・ガナ語)です。この研究は、92年から始まって、ずいぶん長いんですが、その間に少しずつ射程を広げていって、今はKalahari Basin Areaと呼ばれるカラハリ盆地言語地帯の言語全体を横断しています(Nakagawa et. al 2023)。そこの諸言語が、世界の言語の音の体系に比較するとどんな特色を持っているか、そしてその特色はどのように説明できるか、という類型論的な研究をしています。これが主要な研究領域です。それと同時に、フィールド言語学と呼ばれる手法をつかう領域、例えばグイ語・ガナ語の文法的な構造を解明するためのデータを収集して分析したり、あるいはグイ語・ガナ語の辞書の編纂をしたりしながら、それら全部の調査過程で浮かび上がってくる言語学的に見て理論的に興味深いトピックについて考えています。

杉山:ありがとうございます。

中川:ついでに付け加えると、今言ったのはだいたい基礎研究です。私はこれまで基礎研究ばかりしてきましたが、去年からこれに加えて、応用的な研究にも着手しました。それは、高田さんの基盤Sのプロジェクトに部分的に関わってくることで、識字教育につながるような正書法のプロジェクトです。そこでは、話者(=スピーカー)の中に、少しずつ書ける人(=ライター)を養成していくことも試みます。また、その人たちとの対話を通して、正書法の実用的な側面をよりよくしていきます。そのためにはどんな素材を捕捉的に作って提供していけばいいか、なども考えています。正書法の実践は、高田さんたちの紙芝居プロジェクトのお手伝いにもなるだろうと思います。
(紙芝居プロジェクトについて詳しくは、2.(2)識字教育・正書法プロジェクト に続きます。)

(2)言語への関心
杉山:そもそも中川さんが言語に興味を持ったきっかけは何だったのでしょうか。

中川:とくに「きっかけ」があったようには記憶していません。そもそも言語に対して好奇心がありました。誰でもそうかな、と私は思っていたのですが、人によっては好奇心の向くところはだいぶ違うとあとで知りました。私の場合は、気がついたら言語への強い好奇心がありました。

杉山:興味に気が付いても、「これについて突き詰めていくんだ」って決心していくのは、そう簡単ではないような気がします。中川さんの場合は、幼い頃からその気づきと決心があったのですね。

中川:幼い頃に自分の興味に気づいたわけではありませんし、その後、「突き詰めていく」というような大そうな決心をしたこともありませんが、進学するときには、言語学の勉強をつづけることを意識しました。私は東京外国語大学を学部卒業して、東京大学の学部3年に学士入学して、言語学専攻を始めたんです。その時には、言語学という学問領域を本格的に勉強しようと思っていました。そのあと大学院へは迷うことなく進みました。そして運よく、当時はときどきあったテニュア助手のポストに就職できました。それからは生活の心配をすることなく研究を続けることができました。幸運だったと思います。たまたま空いた音声学のポストがあって、勧めてくださる人がいて、応募したら採用されました。そのまま、そこでの仕事をしながら、科研費を取って、調査・研究を続けています。いつのまにか持っていた言語への関心を、そのまま持ち続けて、とくに進路に思い悩むこともなく、これまでやってきた、という感じです。

杉山:でもきっとそれは、時代とか偶然とかではなく、中川さんの実力あってこそだと本当に思います。

中川:たまたま色々な巡り合わせが私には幸いして…なんだと思います。

(3)研究の歩み
杉山:中川さんの若手の時代から今にかけて、どのように研究を発展させてきたのでしょうか。

①フィールドとの出会い
中川:最初にコイサン諸語の資料に触れたのは、2次的なデータ、録音でした。コイサン語研究の日本におけるパイオニアである加賀谷良平先生が1970年代にハンシー(Ghanzi:ボツワナの地名)で録ったグイ語の1変種の録音を私に提供してくださって、それを分析して卒論を書きました。
 それ以外には、1992年に田中二郎先生と菅原和孝さんにカラハリ調査隊に入れてもらうまでは、直接コイサン諸語の観察をする機会はありませんでした。田中先生と菅原さんが連れて行ってくださった1992年のカラハリ滞在で本格的な方向が決まりました。
 その前は、タンザニアに1年近く、ナイジェリアに3ヶ月、フィールドワークに行き、それに基づく研究報告などをしていました。それなりに楽しめましたが、1992年にカラハリに行ったことが転機になって、以後は、もっぱらコイサン諸語の調査研究をしています。コイサン諸語にはもともと強い好奇心をもっていましたが、実際にフィールドで触れてみるとその好奇心はいっそう刺激されました。音韻論・文法・語彙を観察し分析していく過程で、次から次へと言語学的に興味深い問題が浮かび上がってきました。1992年最初の調査の段階で、これはライフワークになりそうだという予感がしました。それからフィールドワークの手法も1992年を境にすっかり変わりました。タンザニアやナイジェリアでの調査では、媒介言語(英語やスワヒリ語)を使って面談調査をする慣習的とも言えるアプローチを用いましたが、カラハリでは、媒介言語なしの調査が主要なアプローチになりました。それは、田中先生や菅原さんの調査手法に倣ったものでした。お二人の先生は、言語学者ではないし、音声学も知らないはずなのに、未記述のグイ語・ガナ語を、クリックを交えて話しながら調査をされていました。
 通常のフィールド言語学的調査では、英語・フランス語・スワヒリ語など地域共通語を面談媒介言語としてつかうもので、研究対象の言語を媒介言語とする単一言語調査法は極めて珍しく、その事例記述だけでも報告に値するものです。ところが、当時の調査地カデ(Xade:ボツワナの地名)では、この単一言語調査法は、むしろ現実的なアプローチでした。当時のカデのグイ人・ガナ人は、ほぼ単一言語生活をしていて、私たちが接する人たちは、ほとんどグイ語あるいはガナ語しか話しませんでした。田中先生や菅原さんの調査の様子を身近に見て参考にしながら、私自身も単一言語調査法を試みることになりました。やってみると、これが思いのほか楽しい。このことも、カラハリでの言語調査を続ける動機の一部になったと思います。

写真1 2回目の現地調査(1993年)の際に観察したトビウサギ猟のようす(撮影者:中川裕)

②恩師との出会い
中川:これまでの研究の継続にとって、重要な契機として、指導者を得たということもあげられます。Anthony Traill という、私の指導教員だった言語学の教授(ウィットウォータースランド大学)です。それこそ天才音声学者と呼ばれていた人で、その通りである側面があった。2回目に行った1993年の現地調査(写真1)からの帰りがけ、ヨハネスブルグでその人に直接会って、グイ語の分析結果について話をする機会がありました。鮮明に覚えていますが、音声学的な話をする際に、高度に複雑なクリックを含む言語音を、おたがい実際に発音実演しながら快適に議論することができました。入り組んだ発音の話を正確かつ能率的に、こんなふうに心地よく話しあえる人がいるんだ、と嬉しくなりました。それがきっかけで、研究交流が始まり、その後、博士論文の指導をお願いすることになりました。Traill先生からは、それまで私に欠けてた理論的な議論の手法や、データ分析の発展のさせ方を、直接・間接的に教わりました。Traill先生に指導を受けられたということは、私の研究において大きな手助けになりました。
 Traill先生に博士論文の指導を受けられたのは、私のカラハリ調査開始が南アのアパルトヘイト廃止直後であったという歴史的な幸運もありました。それより前のアパルトヘイト時代には、学術交流も自由にできませんでした。いろんなレベルでの幸運が重なって、どうにかこうにか、コイサン諸語の研究をすこしずつ発展させながら続けてこれました。

③グイ語・ガナ語との出会い
杉山:タンザニアやナイジェリアにも行かれたのにも関わらず、グイ・ガナで調査をしていく決心をされたということなのですが、そこまで中川さんを魅了したグイ・ガナの言語の面白味を教えていただけますでしょうか。

中川:グイ・ガナに限らずコイサン諸語、特に狩猟採集民のコイサン諸語は、私には、多くの側面で面白く感じられます。とはいえ、一番惹かれるのは、音声学・音韻論でした。一般的に、言語音は、3つの側面に分解して考えます:一つ目は「発声」、有声・無声・有気など声帯振動のタイミングや声の種類がかかわる側面。二つ目は口の中につくる「狭め」で、口や喉のどこをどんなふうに狭めるか、です。三つ目は「気流」。つまり、肺からの呼気であるとか、クリックは口腔への吸気であるとか、そういう側面です。この3つの側面から世界のすべての言語を見るというアプローチがある。そこで、コイサン諸語ですが、コイサン語は、この3つのどの側面にも非常に珍しい特徴が観察されます。世界の言語を見渡すと、他所ではめったに、あるいは、決して見られないような発音、—こんな「発声」と「狭め」と「気流」で発音するのか!と驚くような仕組みの言語音—、をたくさん使います。言い換えると、コイサン諸語の音声学・音韻論は、「人間はこんな発音までするものなのか」と驚かせるような、言語音声の限界に迫るようなところがあるんです。
 グイ・ガナの言語は、コイサン諸語の中でも、とりわけ「世にも珍しい」発音をたくさん使っているほうです。詳細はお話できませんが、たとえば、世界でいちばん子音が多い言語はコイサン諸語のひとつコン語で、これはさっき言ったTraill先生が研究をしていた言語です。グイ語はそれに次いで子音の多い言語で、90子音を区別します。そしてそんな極端に複雑な体系を成り立たせ、維持している仕組み、メカニズムが、グイ語の音韻論的な精査から解明されてきて、さらに、そのメカニズムは他のコイサン諸語にも共有されていることまでわかってきました。世にも珍しい特徴の発見も楽しいし、なぜそれが成り立っているのかを、うまく説明する原理を見つけ出すのも楽しい。人間は言語音をこんなふうに組織化するものなんだ、ということがより良くわかってくる。そんな楽しみを、コイサン諸語、とくにグイ語とガナ語は与えてくれます。
 音声学・音韻論以外でも、グイ語・ガナ語には言語学者を強く惹きつける特色があります。たとえば、単語の意味(語彙意味論)もそのひとつです。未記述の言語の調査では、最初にその言語の発音体系をある程度解明して、その言語を記録するための表記法を設定します。そのためには、まず、音韻分析の対象となる単語を集めるという作業をします。この単語収集作業は、言語調査の最初から始まって、音韻構造や文法構造が解明されてからも、さらに延々と続けていくことになります。単語を集め記録する時には、その発音や文法特徴とともに、意味を明らかにしていかねばなりません。最初は、màã̄は頭を、ǂχáíは目を意味する、という具合に大まかに同定していく。するとそのうち、予想もしないような概念が単語になっている例に出くわしたりします。もちろん、言語ごとに、概念の語彙化(単語化)には多かれ少なかれ違いがあるものですが、グイ語・ガナ語には、世界の言語のなかでも極めて珍しい概念の語彙化がいくつも見つかります。特定の動物(e.g. キリン、ゲムズボック)の肉の味・香りを意味する動詞が多数あったり、ユニークな意味拡張(e.g. TASTEがSOUNDに拡張、 HOT vs. COLDが発酵・腐敗臭の程度に拡張)や意味分化(e.g. 食品クラスによるEATの2分化)が認められたり、あるいは他の言語には報告されていない「口当たり動詞」体系が発達していたり。これらは、それぞれの単語の個別的な現象というよりは、ほかの現象との関連をもっていることが多く、それを説明することができるような、理論上の概念の発展に役立つことがあります。実際、グイ語・ガナ語の事例は、語彙意味論における理論的な議論に貢献しています(e.g. Nakagawa 2012)。要するに、単語の意味という点でも、グイ語とガナ語は言語学的に魅力的です。
 詳しくは話しませんが、もちろん文法でも、なぜこの言語はこんなことをするんだろう、その背後にはどんなメカニズムがあるんだろう、と考えなきゃならないような、文法現象も多数みつかります。だから、言語学者ならば、幸運にしてそこに行き着いて調査することなったら、誰でもこの言語が気に入ると思います。

写真2 ブッシュに仕掛けられた跳ね罠。この罠には、スティーンボックやブッシュダイカーなどがかかる。(撮影者:中川裕)

杉山:なるほど。言語そのものの学問としての発展の面白さと、言語を通したサン社会を見る楽しさと、両方あるのかなと思うんですが、言語を通してサン社会を見ることの面白さについて何かあれば教えてください。

中川:例えば今言ったような、他の言語にはなかなか見つからないような言語学的特徴があったとすると、これは一体なぜだろうか、これを成り立たせている仕組みはなにか、とか、こんな特徴を持つようになった経緯はなにか、という疑問が浮かび上がりますよね。その疑問に答える、つまり説明をするには、いろいろなアプローチがあります。そのうちの一つとしては、観察される稀有な特徴は、社会・文化個別の特殊性に関連している、つまり、その背後に、当該社会の特徴が絡んでいると見る視点がありえます。いま、解説のために便宜的にすごく単純な例をあげると、グイ語・ガナ語には「食べる」という動詞に2つあり、それらは消化対象となる食品クラスに応じて使い分けられます。食品クラスは大まかにいうと、肉クラス(脊椎動物)と非肉クラス(植物や昆虫)で、この二つによって「食べる」の語彙化が異なるのは世界の言語でも非常に珍しいと言えます。そうすると、この語彙意味論的に珍しい特徴は、いったいどう説明することができるか、が問題となります。これは、見ようによってはグイ・ガナの伝統的な生業の構造、つまり狩猟(肉食品の獲得:cf. 写真1, 2, 4)と採集(非肉食品の獲得:cf. 写真3, 5)に対応している、と説明できるかもしない。すると、さらに、他の社会・文化における食料獲得のための生業パタンと「食べる」の語彙化パタンは、相関があるのだろうか?という検証すべき疑問が立てられるかもしれません。杉山さんのご質問の「言語を通して社会をみる」というのには、こんな視点もあるだろうと思います。

写真3  shepherd’s tree (Boscia albitrunca) の果実を採集して持ち帰る少女(撮影者:中川裕)

2.基盤Sプロジェクトと中川さん

(1)子どもの発達と言語
杉山:当基盤Sプロジェクトでは「子育て」がキーワードになっていまして、中川さんの言語研究と子育て、どういう関係があるのでしょうか。

中川:私自身のこれまでの研究は「子育て」とはほとんど関係がありません。関連しそうなものは、クリックが乳幼児にどんな風に獲得されるかという問題を、少し前の科研(「音韻獲得の言語相対論の新展開:クリック子音獲得の事例研究」)で取り扱った程度です。そこで、杉山さんの質問への答えですが、私の言語研究の一部は、基盤Sプロジェクトの研究活動のインフラ整備に役立つことができそうだと考えています。つまり、調査研究活動に利用する素材提供というような仕方で関わっているかと思います。例えば、今進めている紙芝居プロジェクトでも、物語の選定、物語テキストや音声の処理や編集などにあたり、言語学的な観点からの取り扱いを経て、調査研究現場で使う素材を整備することが望ましいと思います。「子育て」プロジェクトの他の側面でも、言語資料が関与する際には、お手伝いできるだろうと考え、参加しています。とくにグイ語・ガナ語のように文字言語化されていない言語が関与するフィールド調査では、言語学者の視点はなおさら重要だろうと思います。その意味で、基盤Sにおける私の役割は、研究活動基盤の一部を整備するサポート的なものかな、と思っています。他の点で、どんなふうに基盤Sプロジェクトのお役に立てるかは、今後すこしずつわかってくるだろうと楽観しています。
 一方、高田さんのプロジェクトから私自身が自分の研究のために学ぶことも多いだろうと期待しています。たとえば、私がいま手がけている別の科研プロジェクト(「カラハリ狩猟採集民の持続可能な識字活動の基盤」)では、グイ語・ガナ語の正書法と識字のためのソフト的インフラを整備しようとしています。グイ語・ガナ語を失いつつある若い世代が、識字拡大を通して言語を維持したり復興しようとするときに利用できる基盤を用意しています。それと同時に母語識字に関心をもち、動機づけのあるグイ人・ガナ人のなかに、グイ語ライター、ガナ語ライターを少しずつ増やしていこうとしています。また、グイ人・ガナ人たちが、将来「子育て」に利用する可能性のある言語素材を用意しておくことは、私が目下やっていることと直接関係があります。これまでこの種の応用研究の経験のない私にとっては、この正書法プロジェクトを進めるために、基盤Sの活動、とくにアクションリサーチというアプローチが大いに勉強になります。

(2)識字教育・正書法プロジェクト
①進め方
中川:正書法プロジェクトは、それを役立てて母語識字を発展させようとすると、そのプロジェクトが生み出す成果物は、正書法体系・正書法表記語彙集・正書法表記テキストなどのモノだけではありません。当たり前のことですが、母語書記者mother-tongue writer、母語読者mother-tongue readerという人材を生み出さねばなりません。
  私はいま正書法プロジェクトでグイ語話者1人とガナ語話者1人との共同作業によって、彼らに初のグイ語ライター、ガナ語ライターになってもらうという活動に取り組んでいます。去年の12月から、週4日程度の訓練をつづけていて、彼らと顔を合わさない週はないほどです。この研究活動には工夫が一つあります。それは、正書法訓練セッションで、彼らと決して直接「対面」しないことです。訓練は全てオンラインだけで行っています。これがうまくいけば、今後、ボツワナのグイ・ガナ集落でのインターネット基盤が整備されるころには、すぐに遠隔支援で正書法訓練ができるようになります。慣習的な現地ワークショップ型正書法教育とは異なり、レッスン中に鉛筆で紙に書くことはしていません。全部Googleドキュメントの共有で、そこに入力してもらい、それを「添削」するというやり方で書く練習をして、さらに、自分たちで書いた正書法テキストをあらためて読むという練習を中心にしています。
 最初は試行錯誤だらけでした。ちょっと想像すると分かると思いますが、綴りの指導では、「スペルアウト」ができると効率が上がります。ABCが間違ってABKと綴られていたら、が「エー・ビー・ケー」ではなくて「エー・ビー・シー」だと伝える。そのためには、すべての文字に名前が必要です。通常のアルファベットからなる正書法なら良いのですが、グイ・ガナ正書法には4つのクリック記号が含まれ、それらには名称はない。正書法訓練のレッスンをしながら、これら4つに扱いやすい名前をつけなきゃいけない、と気づきました。グイ語・ガナ語の子音や母音や音節構造をつかい、しかも既存の単語との重複(同音異義語)を避けて、さらにそれぞれの記号の発音を特徴付けるような名称=グイ語・ガナ語の新語を4つ、何回かの試行錯誤を経て作りました。今では、この4つの新語を使わないレッスンはないほど、これらはうまく機能しています。また、このプロジェクトの初期段階では、彼ら母語話者の嗜好に合わせた文字選択による正書法細部の微調整もしました。グイ語・ガナ語はほぼ同じ音素体系を持ちますが、それぞれの音素の実際の発音には若干の差異があり、その差異を包括するような代表音を表す文字の選択などについて、母語話者の意見を聴きながら、これもまた試行錯誤しながら、正書法体系を定めていきました。
 設計したグイ・ガナ正書法では、通常のアルファベットにいま言った4つのクリック記号、さらに、声調記号が4つ加わる文字セットを使います。これで全ての単語が綴れる正書法体系にしてあります。プロジェクト・メンバーの加藤幹治さん(人文学オープンデータ共同利用センター)と木村公彦さん(東京海洋大学)が、これらの文字を手軽に入力するためのアプリケーションを、コンピュータ用(macOSとWindows)とスマートフォン用(iOSとAndroid)に開発してくれました。
 初のグイ語ライター、ガナ語ライターに、まさになりつつあるプロジェクト参加者は、Bihela SekereさんとGakedumele Sekereさんというご夫婦で、私とBihelaさんとは彼の少年時代からの知り合いです(写真4)。彼はボツワナ外務省に勤務する外交官で、現在、在日本ボツワナ大使館に赴任中のためご家族といっしょに東京に住んでいます。オンラインによる正書法訓練の取り組みは、ご夫婦の家に行って、スマートフォンとコンピュータに必要な機器や正書法入力ツールを含むアプリケーションをすべてインストールして、オンライン会議がいつでもできるようにセットアップをするところから始めました。加藤幹治さんがセケレ夫妻の家に出張してすべての機器とアプリの準備をして、ZOOMにログインしてくれました。同時に私が自宅からログインし、正書法訓練のセッションに必要なすべてについて、ZOOMとWhatsApp上での動作確認をしました。
 こうして正書法訓練の活動はオンラインで可能になりました。その日から正書法の練習はZOOMとWhatsAppだけで進めています。そしてそれは、セケレ夫妻の優秀さもあり、期待以上の成果をあげています。正書法訓練開始から、そろそろ1年になります。グイ語・ガナ語は世界の言語のなかでも破格的に多い音素をもち、さらに声調も複雑なため、その正書法は、アルファベット的実用正書法としては世界最大級の複雑さをもつと言えます。この正書法を身につけるのは多くの困難があるはずですし、教える側の私も未熟です。にもかかわらず、セケレ夫妻の進歩は目覚ましく、今では正書法の練習方法として、グイ語・ガナ語の録音の文字起こしや自由作文(昔の記憶や最近の経験を綴る短文作り)が有効なほどに習熟してきました。
 次の目標は、彼ら二人に、他のグイ人・ガナ人に教えることができるようになるまで書記技能を身につけてもらうことと、さらに同様の母語ライターを増やすことです。つい最近、WhatsAppに新たに初級者向けの「ǀGúī-ǁGáná writers (Basic)」というグループを作って、セケレ夫妻に続く母語ライター候補の訓練準備を始めたところです(後述)。母語ライターを増やせば、若い世代に正書法を教える人、自分たちの子どもにも教える人が出てくるかもしれません。そうすると「子育て」にグイ・ガナの母語識字が加わることになります。

写真4 1995年1月に狩猟に同行した際の写真。向かって左端がBihelaさんでブッシュダイカーの幼獣を持っている。 (撮影者:中川裕)

②グイ語とガナ語の現状
杉山:中川さんの識字活動への想いを感じました。1992年からずっと長いことフィールドを見られていて、日本語でも30年もあったら言葉はどんどん変わっていくと思うんですが、グイ語とガナ語はどういう変化があるのでしょうか。

中川:重要な問題ですが、実はあまり体系的に調べていません。私は1992年の調査開始以降、ずっと同じ人たちと共に歳をとりながら、データ収集をしてきました。彼らの言語の変化は新語(借用語)が加わったぐらいで、体系的に変わったとは思えません。また、若い人たちの話すグイ語・ガナ語のデータは十分に集められていません。もちろん、使われる借用語は若い世代では一層増えているはずですし、狩猟採集に関連する語彙は著しく減っているはずです。文法的には複雑な代名詞の体系が正確に使えない話者は増えているようです。だから自然な言語の変化というよりは、衰弱に向かっているのは間違いないと思います。

③紙芝居プロジェクト
杉山:紙芝居についてお尋ねします。中川さん提供のストーリーに基づいて、中山さんが紙芝居を作り、それを中川さんから、今東京にいるセケレご夫妻に見ていただいたという話を聞きました。母語話者としてのお二人の反応はどうだったのでしょうか。

中川:彼らは2人とも伝統的な物語の実演を聞くのがそもそも大好きだそうで、あのツチブタの話もよく知っていました。また、今回の紙芝居用のグイ語版とガナ語版の編集は、私の別の科研プロジェクト(「言語音の多様性の外延の理解拡大:3基軸データによるカラハリ言語帯の音韻類型論」)のメンバーの大野仁美(麗澤大学)と私、それにセケレ夫妻も加わって、4人で行いました。彼ら二人は、自分たちが編集したテキストをもとに「紙芝居 paper theater」なるものができあがることに(いったいどんなものが出来上がるのかに)強い関心をもっていました。だんだん出来上がる絵を見たり、それについての自分たちの意見を言って、それが改訂に反映されることを楽しんでいたように思います。ハケドゥメレさんがガナ語版テキストを読み上げてくれて、それに紙芝居をあわせた動画クリップを作って見せたところ、ふたりとも大変喜んでいました。グイ・ガナの物語が加工されてこんなメディアになるということ、そこに自分たちも関与したことを楽しんでいました。

中山:紙芝居を作成しながらとても面白く感じました。私は、絵本みたいに綺麗に作ろうとか、こうした方が目立つし面白いっていう風な感じで作ってたんですけど、そしたらグイとガナの人たちは、「そうじゃない」「私たちのところでは、こうなんだ」と言って、リアリティの方が喜ばれる。リアルにすると「そうそうこれでいい」とすごく喜んでくれたり、それがすごく面白かったです(図)。中川さんはどういう点が面白かったですか?紙芝居のやり取りの中で。

中川:だいたい中山さんと同じです。彼らの意見を聞いていて面白かったのは、彼らが熱心に「こここうした方がいい」って、話題の焦点にするところが、私の予想や期待と違うときでした。例えば、どっちの手でどう持つかとか。彼らにとっては、ある持ち方がすごく不自然に見えるらしい。登場人物が左利きという情報は物語にでてこないので、槍は右手に持っているはずだとか、この持ち方は危険だとか。言われないと、私たちは気が付かないですよね。人間がツチブタを妻にしているという現実離れした設定なのに、細部の描写は写実主義的です。彼らのフィードバックからは、どんなふうに描写するのが彼らにとって写実的なのかがそのつど分かりました。それが面白く感じられました。中山さんもそう思われたのではないでしょうか。

中山:はい。

中川:それから衣装については、紙芝居を1枚ずつ進めて見せていくうちに意見が変化しました。最初は、子供たちが見るならこのカラフルなのもいいと言ってたのですが、敷物のデザインの草案をみると、これは革製にみえるように直した方がいいと言い、そう言ってるうちに、衣装についても伝統的な革製(cf. 写真5)が良さそうだ、そもそもこれは昔の人々の話なんだし、という結論に2人とも傾きだしました(図)。それでも、カラフルな衣装の絵も保存しておいて欲しい、と言ってました。

中山:比べてみたいって言っていましたね。

中川:はい、言ってました。今回の中山さんの作品は、劇画的な写実画ではなくて絵本の挿絵かマンガ的に単純化したスタイルの絵ですよね。だから手の詳細は解剖学的・生理学的にナンセンスでもよくて、手と物の位置関係がわかれば良いじゃないか、と私などは思います。彼らはそうじゃなくて、話に出てくる人たちの所作としては、これはちょっとダメと感じて、こんな風に直して欲しいと、フィードバックしたみたいでした。

図 紙芝居の修正前と後(詳しくは、11月発行のNewsletter、12頁をご覧ください)

杉山:このストーリーは中川さんから提供されたストーリーなんですよね。これはどのようなシーンで話されるのでしょうか。

中山:子どもたちとかに夜話したりするんですか、皆さん?

中川:そうなんですが、聴衆は子どもとは限らない。青年、成人も喜んで聞きます。児童文学には通常期待されないような大人向けの設定や会話、情景描写が含まれる話もあります。子供が同席しているところで、ギョッとするようなセリフやシーンが語られることもあります。子どもは、わからないところは飛ばして、別の箇所を楽しむのだと思います。

中山:でもあのお話は紙芝居にするのは、とてもしやすかったです。

中川:そうですか。あの物語を選んで良かった。
 グイ・ガナの物語と聴衆の関係は、「日本昔ばなし」的なジャンルよりも、落語のそれに似ているように思います。聴衆は年齢を問いませんし、また、聴衆の大半は「噺」の概要を知っていて、印象的なセリフも覚えているようです。同じ物語のいくつかのバージョンを聞くと、あちこち端折っていたりします。聞き手の多くは、端折った箇所は知っているし、端折られても次に起きる出来事は知っているから話はわかる。次にどんな歌がでてくるかも知っている。紙芝居にする場合、大事な情景がなかなか分かりやすい絵にできない、ということがあるかもしれませんが、その情景ぬきでも、きっと話は通じます。聴衆全体にとっては、十分な情報が紙芝居の絵から分かるだろうと思います。

中山:あ、そうなんですね。よかったです。初めて聞くんじゃないんですね。

中川:聴衆は子供ばかりじゃないでしょうから、初めてじゃない人が大半だと思います。出来上がった紙芝居をみて、セケレ夫妻も、大人にも見せるのがいいと言ってました。

杉山:中山さんによってイメージ化されたものを見て、ストーリーを知ってる現地の人々がどのような反応をするのか、より楽しみになりました。

写真5 採集にでかける年長の女性たち(1995年1月)。肩からさげている風呂敷や腰に巻いているスカートは伝統的な革製である。(撮影者:中川裕)

④スマートフォンを使ったプロジェクト
杉山:スマートフォンを使ったプロジェクトもされていると伺っています。

中川:始動段階にチャレンジが多くて大変です。現地のスマートフォン利用者に、必要なアプリをインストールしてもらうことが難しいし、必要なアプリを使う習慣をつけてもらうことも、またなかなか難しい。
 でも、これらをクリアすれば、遠隔支援による正書法実習活動ができると思っています。もともと正書法に強い関心をもち、スマートフォンを持っていて、WhatsAppをすでにインストールして使った経験がある現地のグイ語話者2人に協力を呼びかけて、さきほど言ったWhatsAppグループ「ǀGúī-ǁGáná writers (Basic)」で、グイ語を混えたチャットを試しに交わしてみました。その感触からいうと、少人数なら正書法の練習に効果が期待できそうです。あとは、こちらから現地に出向いて、必要なツールのインストール・設定・動作確認を彼らのスマートフォンで行い、さらに入力方法の初歩的研修を実施すればいい。そうすれば、スマートフォンによる識字実習支援が本格的に始められます。
 そこで、2024年1月上旬に、入力ツールを開発してくれた加藤幹治さんと私とで、現地で小規模な研修会を実施することにしました。加藤さんが参加者のスマートフォンをプロジェクト開始可能な状態にセットアップしてくれて、さらに、私と一緒にスマートフォンによるグイ語綴りの集中特訓をしてくれます。今年度末にはいい成果報告をしたいと思っています。

3.今後について

杉山:では最後に、これからの意気込みを伺ってもよろしいでしょうか。

中川:63歳に「意気込み」を聞きますか、いまさら意気込みはないです(苦笑)。私はあと2年で定年退職します。退職後はいつでもフィールドに行ける。だから、これまでの調査漏れが何であったかが分かるように、この2年で下調べしておこうと思っています。時間が自由になってからのフィールドワークのために。もちろん、基盤Sにも言語研究を役立てたいと考えています。だから、チームの皆さんが取り組んでいる研究活動、私にとって未知の分野のそれについてもできる範囲で理解しようという「意気込み」を持つことにします。

杉山・中山:本日はありがとうございました。

中川:こちらこそ、ありがとうございました。